中川湖堂と俳画

中川 湖堂と俳画

父 湖堂は、五十歳を過ぎた頃より俳句を熱心に創作するようになり、俳諧誌「正風」に永年投稿。月刊「滋賀医師会報」には毎回数句を掲載し、地域の句会では、宗匠役をやるほどでした。九十九歳で亡くなるまでの多数の作品は自選の3刊の句集に整理されておりましたが、最近、遺品を整理する機会があり、沢山の俳画作品が集積されている事が判明しました。もとより父の俳画は、地元の文化祭などに出品して来ており、その作品の一端は周知のことでしたが、これ程多量の作品をその年度ごとに集積保管していたことに驚愕しました。また、これらの作品群は、厳選されたものらしいのです。

 物をひたすら保管するのは、故人の習癖のならいだったのですが、このまま蔵の隅に眠らせておくに忍びず、SNS上の配信を思い立った次第です。

 父は、こうした行為を何と思うかしれませんが、ご笑覧いただければ幸甚です。

令和四年七月  院長 記

中川 湖堂 略歴

  • 本名 中川 二郎

  • 大正三年四月二十九日生

  • 虎姫中等学校、広島高等学校、岡山大学医学部卒、医学博士

  • 脈 昭和五十年入会、昭和六十一年同人

  • 正風 昭和五十三年入会、昭和五十六年主宰より立机開庵許され、寿福庵湖堂の俳号を賜る。

  • 海郷 昭和五十三年入会

  • 狩 昭和六十年入会

  • 平成二十五年六月六日没

簗(やな)杭を あらわに並べ 冬の川
大漁旗 あげて漁港の お正月
朝顔や 新聞配る 子が通る
宿坊の寝落ちしころか 天の川
こぼれ来し 路上の桐の 花踏まず
たらちねの 乳房まんまる 桜んぼ
大仏の 背を見上げて 天高し
野あざみや 醍醐寺とある 石標(しるべ)
松とれて 漸(ようや)く常の 医に戻る
柿若葉 あの子この子も 保育園
路地に堂あれば 点して 地蔵盆
魞(えり)ごしに 島を浮かべて 秋うらら
この下は 高松塚や 竹の春
鮎漁(あさ)る 浅瀬の鷺(さぎ)の早き技
部屋涼し 人語を真似る 鳥と居て
滝音を 近づけ覗(のぞ)く 遠眼鏡
野あざみや 醍醐寺とある 石標(しるべ)
暁闇(ぎょうあん)に 鈴の尾白し 初詣(はつもうで)
蟹の肉(み)をせせれば時雨(しぐ)る 海の宿
句日記を 頭陀(ずだ)に携(たずさ)へ 冬遍路
緑陰や 手窪(てくぼ)にうける 筧水(かけいみず)
魞(えり)ごしに 島を浮べて 秋簾(すだれ)
丁子(ちょうじ)の香 女混みあう 美容院
簗(やな)杭を あらわに並べ 破れ簗
鄙(ひな)人の 方言は美し 桃の花
雛段を 納めて 広くなる我が家
志鶯(うぐいす)や 湯の淵青き 湯の地獄
青梅雨や 山に薬草 日々育て
盆すぎて 帰省の客ら 帰られし
香煙を 重げに立たせ 梅雨の寺
島影の 玻璃戸(はりど)よぎりて 風光る
着ぶくれて 聞法(もんほう)の座を 詰めにつめ
山が山 抱き粧(よそお)う 国境
志鶯(うぐいす)や 朽(く)ちし末社の 板囲ひ
百選の 一つの泉 澄める里
路地に堂あれば 点して 地蔵盆
魞(えり)ごしに 島を浮べて 秋簾(すだれ)
夕あきつ 飛んで童話の 絵に帰る
昼寝して この世の浄土 かと思ふ
太陽の 恵ぐみ遍(あまね)し 豊の秋
戸隠の 奥社残雪 軒端まで
とっときの 手品技ひとつ 年忘れ
色に出て 金木犀(きんもくせい)の 香をこぼす
浜日傘 並べホテルの 渚かな
患者より 齢(よわい)問はれし 老の春
葉牡丹や 人それぞれの 渦に住み
向日葵の 枯れていよいよ 強直に
青き踏む 一乗谷の 館跡
湖北には 湖北のくらし 柿の秋
恙(つつが)なき 余生ほめあう 帰省の士
日の落ちて 星も加わる 風の盆
湖北には 観音あまた 柿の秋
碁敵の 次の手を待つ 団扇(うちわ)風
魞(えり)と魞 つなぎて渡す 雁の棹(さお)
にごり酒 ありと貼紙 峠茶屋
また一人 子の名ふやして 賀状くる
鼓笛隊 街へくり出す ばら(??)
誰も居ぬ プールの水面 夜の秋
温泉の 宿の窓みな点り 五月くる
今朝雪の 伊吹となりぬ 初句会
お降(しめ)りや 春日の社に朝鴉(からす)
星空の 青き闇へと 鬼やらふ
石塔寺 塔は語らず 夏薊(あざみ)
石塔寺 塔は語らず 夏薊(あざみ)
還暦の 赤き頭巾で 鬼やらふ
縦糸に あふるる日差し 筬(おさ)始
滝音を 近づけて聞く 走眼鏡
白藤や 謹厳居士の 柩出づ
梳く風に 靡(なび)き返して 糸柳
婚の荷の 着きてしぐれて 婚日和
葉牡丹や 人それぞれの 渦に住み
魞(えり)の簀(す)に 春光沈めて 湖平ら
岸壁の 奈落に夏の 潮騒ぐ
祇王寺の 円窓一つ 白障子
釣人も 暮景の一つ 花芒(すすき)
水郷の 櫓(ろ)をきしませる 良夜かな
下萌えの 畦(あぜ)に検地の 杭の音
行方は 決めているらし 渡り鳥
陽炎に 吾もかげろひ 草千里
尺八の 一曲手向く 初盆会
萱門の 古りし屋敷や 石蕗(いしぶき)の花
誘われて いでて来りし 虫の庭
寺町の 石垣沿ひの 寒さかな
患家にて 土用に熱き 茶を出され
下萌えや 屈(かが)めば聞ゆ 土の声
水仙の一差(さし)にて足る 四畳半
山茶花の 紅のぞかせて 春の雪
寒土用 廊二度めぐる 二月堂
木枯や 梗塞しめす 心電図
萱門の 古りし屋敷や 石蕗(いしぶき)の花
法城(ほうじょう)の 一灯映えて 山眠る
鷺舞へり 八束穂(やつかほ)垂る 湖北の野
障子貼る 糊の加減を 刷毛に聞き
湖北野も 北国道も 葛の花
枝豆を つまみて月と 酌み交わす
羅(うすもの)を 召され折目の ある起ち居
尺八の 一曲手向く 初盆会
参道の 真中に梅雨の 百度石
下萌えや 座せば聞ゆる 土の声
万緑に 溶けゆく誦経(じゅきょう) 鹿ケ谷
蓮如様 お立ちのふれに 巣立鳥
石塔寺 塔は語らず 赤のまま
草笛を 吹いてふくらむ 少年期
踏青や 展望台の 方位盤
つくつくし 仲時とちの 小さき墓
来迎の 御手の涼しき 盧舎那佛
下萌えや 屈(かが)めば聞ゆ 土の声
下萌えや 土のいとなみ 日のあたり
封切って 利く蔵元の 新酒かな
ハイカーの 肝を冷やせし 地雷
誘はれて いでて来たりし 虫の庭
神杉の 鉾(ほこ)立ちあがる 初明り
薫風や 哲学の道 歩むとき
露草も 共に刈り取り 遊園地
遠目にも 野草凌ぎて 女郎花(おみなえし)
木枯の 吹き抜けてゆく 峡(かい)の国
老舗とは 老舗の家訓 大旦(おおあした)
日本に生まれ お伊勢を 恵方とす
挨拶の さまに出て来て 嫁が君
(正月三が日の鼠の異称)
寺町の 石垣沿ひの 寒さかな
お雑煮の 餅は3つと 卒寿かな
同じ木に 今年もひとつ 返り花
耐え忍ぶ これも人生 冬木の芽
春惜しむ 琵琶湖を船で めぐりつつ
星凉し 琵琶湖大橋 灯ともりて
水仙の 一花にて足る 四畳半
障子貼る 糊の加減を 刷毛にきき
雲雀野や 余生は詩歌を 伴侶とし
太陽の めぐみ遍(あまね)し 豊の秋
一望の 海とり入れて 夏座敷
伊吹嶺を 貼り絵のごとく 十三夜
昼寝して この世の浄土 かと思ふ
陽炎と 吾もかげろひ 草千里
戸隠の 奥社残雪 軒端まで
花の咲き 花の散る世に生まれ来て
白蓮(しろはちす) はなびら深く 風入れて
風花や 魞(えり)を見下ろす 奥琵琶湖
遠蛙 夜な夜な水の 近江かな
般若経 洩れくる庭や 白椿
初蝶や 展望台の 方位盤
とっときの 手品技ひとつ 年忘れ
草笛を 吹いてふくらむ 少年期
十薬を 刈り干し 匂ひの中に住む
ふる里の土を恋しと つばくらめ
天高し 棟木にひびく 一の槌
日も落ちて 星も加はる 風の盆

◆ 編纂後記(父の俳句について)

父は、生涯の作句を句集「鮎漁る」(平成六年刊)、「お白石持ち」(平成九年刊)にまとめている。俳画を掲載するにあたり、その俳句集についても紹介したい所であるが、散漫となる収載を避け、「お白石持ち」の巻頭を飾って頂いた「狩」の主宰吉原一暁師の解説的序文を以下に紹介する。非常に丁寧な序文で良き理解者を持った父は本望だったと思う。

平成九年刊「お白石持ち」(左)平成六年刊「鮎漁る」(右)

句集「お白石持ち」の序文(湖堂の俳句紹介に替えて)

湖堂さんとの出会いは十数年前にさかのぼる。詳しいことは「あとがき」に述べられている通りである。まだ直接お合いしたことはないが作句を通してのお付合いである。数年前のこと、琵琶湖吟行の際に、"万緑に浮ぶ琵琶村竹生島"という句を作り狩誌に発表したところ、びわ町に住む狩誌友の湖堂さんから早速丁重なお手紙をいただいた。「現在は琵琶村ではありません。びわ町です」という指摘である。私はその迂闊さをお詫びしたが、郷土を愛する熱血漢の湖堂さんにとって黙って見過すわけにはいかなかったのであろう。私はその誠実で律儀なお人柄に心をうたれ、以来今日まで再び親交を深めていただいている。

  • うろこ雲癌告示せず逝きし人

  • 棚のもの要と不要に分け師走

  • つつましく生きる仕合はせ花菫

の諸作は湖堂さんのやさしくて、几帳面で、控えめなお人柄の一端を窺い知ることができる。

秀吉の出世城として名高い長浜城のある長浜市に生を受けた湖堂さんは、岡山大学医学部に学び、のちに徳島県小松島市立病院長などを歴任し、昭和三十年に故郷びわ町に帰り内科医を開業した。医業の傍ら昭和十九年ころから俳句にあこがれるが、長い中断期間ののち、四十九年頃より、空間を埋めるように俳句に傾倒して行った。五十年「脈」に入会、六十一年「脈」同人。また五十三年には「海郷」にも参加、五十九年佐野まもる師の死去による終刊と同時に「狩」に入会、今日に至っている。この俳歴から察する限りどちらかと言うと晩学の人である。

四十九年~五十九年の作品を集めて第一句集「鮎漁る」を既に出版しており、それ以後の作品四百二十余句を選んだのがこの句集である。

句集名となった「お白石持ち」は

  • 奉曳卓木遣の唄に練る残暑

  • 爽かや石奉献の砂利の道

の句による。お白石持ち行事を詠ったものである。伊勢神宮では二十年に一度(式年)社殿を建て替え、神殿を真新しくして清浄な社殿にお遷り願う。二十年に一度という周期は精緻をきわめる建築技術を後世に伝え受け継ぐための必要年数と言われている。第六一回式年遷宮は平成五年十月に行われた。遷宮前の八年間に亘ってさまざまの行事が行われるが、直前八月には、敷地に敷きつめる白石を満載した奉曳車が町中を練り歩く「お白石持ち行事」が盛大に行われ、十月には遷御となる。かっては旧神領民に限ってこの行事に参加を許されたが、前回より一般も参加できるようになった。この題名が示す通り、湖堂さんは大の歴史通でありまた旅行好きでもある。歴史や行事、名刹を訪ねては旅をする。集中旅吟が多いのもそのためである。

  • 現せみの浄土紅葉の曼陀羅寺 (浄瑠璃寺)

  • 壇林の跡とや落葉地に還し (常照寺)

  • 万緑の坩渦の底に永平寺

  • せせらぎの林間の径涼しゅうす (軽井沢)

  • 崖を見て紅葉見なほす寒霞溪

  • 火空吊る縄煤光る榾の宿 (白川郷)

  • 自決名をつづる過去帳涅槃西風 (連華寺)

  • 時の日の添水が刻む詩仙堂

  • 海に沿ふ伊根の舟屋の屋敷稲架 (丹後)

  • 塔影を林泉に崩さぬ寒の鯉 (当麻寺)

  • 冷まじや霊山にして自刃の間 (高野山)

  • 日の落ちて星も加はる風の盆 (八尾)

  • 寒土用廊二度めぐる二月堂

数えあげればきりがない。旅吟は新鮮な自然や物との出会いであるから、ともとすると旅の先々の事象の目新しさに眩惑されがちであるが、湖堂さんの句には(eye)の所在の確かさがある。旅によって培われてきた観照のたしかさが根底にあってのことであろう。掲出旬のように集中膸所に優れた旅吟を見る。一人で旅に出ると対象と一対一で向き合うことになり、秀句が生れ易いと言われている。

  • 中天の虹のかけ橋眼で渡る

  • 飛火野に年賀を鹿の眼と交す

  • 底知れぬ闇へ寒柝叩き込む

のようにときに思ひもよらぬ表現の句に出くわす。
何と言っても本句集の基調をなしているのは近江(湖北)への限りない愛着である。故郷の近江を終の地として選ばれ、故郷を詠いつづける湖堂さんの胸のうちがひしひしと伝わってくる。

  • 湖北には湖北のくらし柿の秋

  • 行く秋を琵琶湖の北に住み古りし

  • 過疎に生き過疎に老いけり遠蛙

湖北の自然と生活に次第に同化して行く様子がうかがへる。

  • 乗如御影護り謝恩の去年今年

  • 鳥帰る水の近江の魞さきを

  • 稲架木田のタベを湖北しぐれかな

  • 太閤井湖に沈めて花筏

  • 大根を屏風のごとく湖へ掛け

  • 茫野の耀ふ波に湖光る

  • まなかひに島おく湖の大旦

  • 川舟によせては春をたたむ波

琵琶湖は日本一の大湖。水郷情緒が景観を引き立てる。この大景と対峙していると、妙な理屈など煩わしくなってしまう。湖に寄せる湖堂さんの思いはひたむきで奥が深い、風景を単に目で見るだけでなく心で見ようという思いが胸を打つのであろう。

  • 余呉しぐれ琵琶湖は晴れて賤ヶ岳

  • コスモスを撫でる余呉湖の余り風

  • 余呉人の心うつして鏡湖澄む

  • 青葉して余呉の浦波藍深む

わずかなさざ波をたてて山合いにひそむ余呉湖。羽衣伝説のあるこの湖は俳人あこがれの地であり、朝夕の湖畔風景はメルヘンチックである。余呉の自然を詩情豊かに詠いあげる湖堂さんがうらやましい。

  • いくさなき国に案山子の戦斗帽

  • 泳ぐ気はさらさらなくてサングラス

  • 賽銭を 投げてあやかる残り福

  • 死に下手の病上手や秋黴雨

俳諧という言葉からすれば、ユーモアやおかしみは俳句固有の特質である。湖堂さんのおとぼけも見事である。飄々とした句柄故におかしみがこみあげてくる。

  • 脳死今はらからの身に暮の秋

  • 露の世とつくづく思ふ火宅の身

家庭俳句の少い湖堂さんであるが、集未近くの妹さんへの病中句悼旬九句は素直な悲しみが胸を打つ。

  • 葉牡丹や人それぞれの渦に住み

  • 生き死には弥陀にまかせて年守る

  • かりそめの世を永らへて走馬燈

  • 雪吊りの雪なき木々の落付かず

俳句はおのれ自身の生の証しである。これらの句には、業を成し遂げた人のみもつ安心の境地がある。

  • もめごとに懐手して出番待つ

  • 老いてまだ学ぶものあり臥龍梅

傘寿を超えられた湖堂さん。地域の方々の信頼を一身に集めて、句境を更に深められますようお祈りしてお祝いのことばにかえさせていただきます。

   平成九年七月

吉原 一暁